小見川の歴史

古代、小見川の大部分は海であり、陸地部には縄文人が住み着いていた。そのため現在でもその地域には貝塚が多数存在している(白井、阿玉台、木内、内野、良文等)。4~6世紀には、日本の他地区と同様、小見川でも古墳が作られた。100基程見つかっており、代表例として三之分目大塚山古墳や、城山の古墳群が挙げられる。鎌倉時代に入ると、千葉氏の勢力が強まり、その一族である粟飯原朝秀が小見川城を築いた。一方で、西地区の一部(織幡など)は香取神宮が領有を主張していた。粟飯原氏はその後も、源氏、足利氏、北条氏と密接に関わり地域を支配していた。しかし、やがて千葉氏の勢力が衰え、天文21年(1552年)に正木時茂により小見川城が攻略されると、粟飯原氏一族は離散した。また、香取神宮も天正19年(1591年)の太閤検地によって多くの社領を失い、織幡は普通の村落になった。文禄3年(1594年)、松平家忠が小見川に封ぜられた。これが小見川藩の始まりである。続いて土井利勝・安藤重信が封ぜられ、その後天領などを経て慶安2年(1649年)、内田信濃守正信の領するところとなり、以降幕末まで内田氏による統治が続いた。また、この頃から利根川東遷事業により、東北地方の米や銚子の醤油などが利根川を経由して江戸に運ばれるようになった。これにより佐原などはその中継地として栄えたが、小見川もまたその恩恵を受けた。明治時代の廃藩置県により、小見川地区のうち内田氏の支配地は小見川県、それ以外の土地は宮谷県となったがその後どちらも千葉県に編入され、明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、小見川町、豊浦村、森山村、神里村、良文村が成立、昭和の大合併でこれら1町4村が合併し、新しい小見川町が誕生した。